何を持っていくかなあ。

レコガールもレコ1枚選べと言われて「ついに来たわこの時が!」なんてガタガタブルブルしていたけども。まあレコ1枚なんて選べないのはわかりきっているよ。じゃあ本は何になるんだろう。私は映画も本も読み返したり見直したりするってことがあまりないので、それをするということはよほど好きなんだというバロメーターになるのかもな、とか思ったりするのだけど。

ソフィ・カルの「本当の話」は寝る前に何度も見る。途中から開いたり、途中で終わったり、飛ばしたり、読み直したり。話はきちんと続いているはずなのに、そういう読み方をしても気持ちが悪くない不思議な作りをしている。菊地さんの本もそうかもしれない。特に短編集は、短い文章の中で世界がきちんと完結をしている。どこから読んでもよくて、どこで終わってもいい。読み散らかして、読み直して。ひっついて、離れて。そういう感じ。

私はもともとDCPRGの曲から入ったから、第2期スパンクスに関してはその魅力に気づくのはDCPRGに比べると少し後の話になる。彼の文章に絡め取られたのは、スパンクスの解説の中で放った「香水の香りのする音楽」というフレーズだと言っていい。それを読んだ時、死ぬほど驚いて死ぬほどクラクラして、そしてこの人の作るスパンクスは多分、とても甘くて恥ずかしくて素晴らしい物なのだろうと思った。テクノやブレイクビーツにひたすらストイックでアッパーな何かを追求する、そんな硬派な空気の中で10代後半から20代を過ごした。なのに、とつぜんキラキラとした煌びやかなものを見せられて、女の子はみんなお姫さまなのだと言わんばかりの言葉の洪水を浴びせられたのだ。その時のショックは相当なもので、モニタに向かいながら背筋がゾクゾクとしたのを覚えている。

私に向かっていなくてもその気にさせられる言葉を吐けるなんて一種の才能だ。そう感心して、モニタに向かってちょっとため息をつく。そんな風な思いにさせられる文章がたくさん入っている。あまりに濃密な文章の集まり。上等なチョコレートをひとつずつ選ぶように、少しずつ読むのが良いのかもしれない。だからきっと、ここが読みたいあれが読みたい、とわがままに読み散らかすくらいの、好きな時だけ寄り添うくらいの読み方。それでちょうどいいのかも。

昨日「菊地成孔」って一言書いただけでダントツにリンク先の数値が増えていて驚いた。ここに来ても何もないけど、やってくるってことは菊地さんになんらかの興味があるわけで、まあそんなトライブがここにもいますよ、って言っておこうかと思ったのだ。とりとめのない話、とりとめのない日記。