[文化系]丁寧・まどろっこしい・慇懃

「丁寧な文章」を作ることは難しい。
スローライフ系エッセイなら多少意味がわかりづらくても、情景がわかるような文が“ていねい”になるだろうし、日記ならば日々の細々としたことを子細につらねたものに「丁寧」という評価をするだろう。文学だと、作者の言い回しが強く出るあたりが文に対しての「丁寧さ」ということになるのかもしれない。

でも、ここで私が指すのは人にある事項を伝えるための文に潜む丁寧さであって、どちらかといえば業務的な、事務的なものいいのこと。味もなくつまらない文章だけど、おそらく多くの人はこうした伝達文を読んだり書いたりすることの方が多いと思う。美しい文学的な文章なんかよりもずっと。そして、この伝達文がなければ世の中の物事(おもに仕事)はきっと何も進まない。

そういう時の丁寧さは、きれいな文章についての丁寧さと少し違う気がする。相手がそれを読んで間違いなく意味を汲み取って、間違いなく仕事をしてくれる、そんな意味でのもの。気の遣いどころが少し違う。

例えば、わかりづらい丁寧さー作業解説に丁寧語が入り組んだようなーの文は「まどろっこしい」という評価に変わってしまう。あまりにも下手に出たー自信がなくておっかなびっくりで書くようなー文は「慇懃」なものに見えてしまう。少しのことでまるっきり変わってしまう丁寧さを、きれいな形で残すことは難しい。日本語は難しいな。

森茉莉だったかに『暮しの手帖』での話があった。文字数で困って花森安治に見せたら、彼は3文字だけ抜き出した。それなのに圧倒的によく、すっきりした文になったので感心した、というようなこと。本当の文才のある人は、こんなことはさらりとしてしまうのだ。

自分の仕事は言葉を書き手から読み手に渡すことだから、「丁寧さ」の書きわけについても少し気にしている。人の言葉を加工してわかりやすくするのにもいろいろな形がある。でも私はそういうさじ加減がまだ上手ではない。いったいどうすればうまくできるのだろうかと思っては、ぼんやりした頭を悩ませている。

ここの文章は書き散らかすという言葉そのままに振り返ることをしない。いろいろと考えるのは仕事の時だけで精一杯、と頭の端っこで思っている。